ハラスメント相談窓口を設置した。1年が経ち、相談は0件だった。これは良い知らせでしょうか。自己点検・自己評価の様式に「相談件数:0件」と書くとき、その数字は「問題がなかった」ことの証明にも、「声が届いていない」ことの兆候にもなり得ます。同じゼロなのに、意味が正反対です。本稿では、この両義性をどう扱うかを考えます。ゼロを責める話ではありません。ゼロを読めるようになる話です。
QUESTION
ゼロには2つの読み方がある
窓口の相談件数が0件だったとき、考えられる説明は少なくとも2つあります。
相談すべきことが、そもそも発生していない
相談したいことはあるが、窓口に向かわない理由がある
相談件数という数字だけを見ても、AとBは区別できません。ゼロは「何も起きていないこと」の記録ではなく、「窓口に届いた声がなかったこと」の記録だからです。届かなかった理由までは、数字は語りません。
問題は、自己点検・自己評価や設置報告の場面で、ゼロがしばしばAとして扱われることです。「相談件数0件。ハラスメントの発生は認められなかった」という記述は、AとBの区別がつかないまま、Aを選んでいます。
EVIDENCE
なぜ「ゼロ=問題なし」と読めないのか
被害があっても相談しない人が多数派である、というのが調査の示すところです。
厚生労働省の令和5年度「職場のハラスメントに関する実態調査」では、パワーハラスメントを受けた後の行動として最も多かったのは「何もしなかった」(36.9%)でした。セクシュアルハラスメントでは51.7%にのぼります。社内の窓口より先に、家族や社外の友人への相談が選ばれる傾向も示されています。
何もしなかった理由の最多は、「何をしても解決にならないと思ったから」(パワハラで65.6%)でした。窓口の存在を知らないからではありません。相談しても意味がない、と判断されているのです。
これは労働者を対象とした調査ですが、看護基礎教育の現場では、相談をためらう構造がさらに重なります。別稿で詳しく扱いましたが、要点だけ挙げます。
1評価する人と相談先が近い
実習の合否や成績をつける教員に、その教員の指導について相談することはできません。学内の窓口が教員で構成されていれば、構造は同じです。
2逃げ場のない集団で数年を過ごす
学年・実習グループという固定された関係のなかで、「相談した人」と見られることのコストは、卒業まで続きます。
3「耐えることも教育」という規範
厳しさを通過儀礼とみなす文化があると、相談は「弱さ」や「適性のなさ」の表明として扱われかねません。
つまり、相談が少ないことは、この分野ではむしろ標準的な状態です。ゼロという数字それ自体は、良い知らせでも悪い知らせでもなく、判断の材料が足りない状態を示しています。
HOW TO READ
「健全なゼロ」と「沈黙のゼロ」を見分ける
件数だけでは区別できないなら、別の情報を足すしかありません。窓口が機能しているかどうかは、次のような問いで近づくことができます。
認知:そもそも知られているか
学生と教職員が、窓口の存在・連絡方法・「相談すると何が起きるか」を知っているか。年度初めに一度説明しただけなら、実習で本当に困る時期には忘れられています。無記名の認知度調査を一度行うだけで、ゼロの意味は大きく絞り込めます。認知度が低ければ、そのゼロは少なくとも「問題がない」証拠ではありません。
信頼:相談したら何が起きると思われているか
「相談したことが指導教員に伝わると思うか」「相談が成績や実習評価に影響すると思うか」。この質問への回答が「わからない」や「伝わると思う」に寄っているなら、窓口は使われない理由ごと存在していることになります。秘密がどこまで守られ、どこから先は守られないのか(生命に関わる場合など)を明文化して示すことが、信頼の前提です。
経路:窓口の外に声は出ているか
窓口には来ていなくても、声はどこかに出ていることがあります。授業評価の自由記述、退学・休学の理由、実習後の振り返り、保健室や学生相談室への訪問。窓口のゼロと、他の経路のシグナルが食い違っていないかを突き合わせることで、ゼロの読み方は変わります。
敷居:使い始めるまでの段差はどれだけあるか
「事務室に申し出て面談を予約する」窓口と、「匿名のまま文章で送れる」窓口では、最初の一歩の重さがまったく違います。実名でしか受け付けない、平日日中しか開いていない、申出書の提出が要る──段差が多いほど、ゼロは「敷居の高さの記録」に近づきます。
「相談件数ゼロ」と「認知度が高い」と「他の経路にもシグナルがない」が揃ってはじめて、そのゼロは健全なゼロに近づきます。件数だけが手元にあるうちは、判断を保留するのが誠実です。
PRACTICE
自己点検・自己評価にどう書くか
令和5年改正で、指導ガイドラインの第5-1-(13)にハラスメント対応が明記されました。自己点検・自己評価にこの項目をどう書くかは別稿で扱いましたが、相談件数ゼロの年は、書き方に迷いが出やすいところです。
避けたいのは、件数を結論に直結させる書き方です。
「相談件数は0件であり、ハラスメントの発生は認められなかった」
──この一文は、読み方Aを無根拠に選んでいます。監査や第三者評価の視点からは、むしろ「ゼロの意味を検討した形跡がない」ことが弱点に見えます。
代わりに、件数と、その解釈の根拠と、次の手当てを分けて書くことをおすすめします。たとえば次のような構成です。
数字は数字として書く。解釈を混ぜない
ゼロをどう読んだか、その材料を示す
ゼロが続いても検証が続く形にする
この形なら、件数が0件でも1件でも、記述の骨格は変わりません。評価されるのは件数ではなく、件数を読む仕組みがあるかどうかです。
DESIGN
ゼロを前提に窓口を設計する
最後に、順序を入れ替えた見方を示します。相談が来てから機能する窓口ではなく、相談が来ない期間にも機能する窓口という考え方です。
窓口の役割は、実際に持ち込まれた相談に対応することだけではありません。「いざとなれば独立した相談先がある」と知られていること自体が、日常の指導の抑止と安心に働きます。この予防的な機能は、相談件数には一切あらわれません。ゼロ件の年にも、窓口は仕事をしている可能性があるのです。
そのうえで、ゼロが続くときに点検すべきは窓口そのものの設計です。
- 独立性 ── 相談を受ける人が、評価や指導に関わる人と分離されているか。学内で完結する体制には、構造上の限界があります
- 匿名性 ── 名乗らずに相談を始められる経路があるか。実名が最初の関門になっていないか
- 可視性 ── 困った瞬間に思い出せる場所に、連絡先があるか。実習要項・学生便覧・掲示・配布カードなど
- 応答の予告 ── 相談するとまず何が起きるのか(誰が読むのか、いつ返事が来るのか、学校に伝わるのか)が事前に示されているか
設置の有無はもう論点ではありません。指導ガイドラインが求める水準は「体制の整備」であり、その先にあるのは「その体制は使えるものか」という問いです。ゼロという数字は、その問いを年に一度、正面から考えるきっかけとして使えます。
CLOSING
おわりに
相談ゼロは、成果でも失敗でもなく、解釈を必要とする数字です。
ゼロを「問題なし」と読み替えて閉じてしまえば、検証はそこで止まります。ゼロのまま検証を続ける仕組み──認知度を測る、他の経路と突き合わせる、敷居を点検する──を持っている学校は、件数が何件であっても、体制が機能していることを説明できます。
数字を良く見せる必要はありません。数字を読めることを示せば、それで足ります。
博士(医学)。株式会社コノラボ 代表取締役。PLOS ONE Academic Editor。アカデミック・ハラスメントの撲滅を目指す非営利国際団体 Academic Parity Movement(APM)International Advisory Board Member。大学・養成所における研究倫理およびFD/SD研修の企画・登壇多数。
【利益相反の開示】本稿の執筆者は、看護専門学校向けの外部ハラスメント相談窓口サービスを提供しています。本稿の趣旨は相談件数の解釈の枠組みを示すことにあり、特定のサービスの導入を推奨するものではありません。
REFERENCES
参考資料
- 厚生労働省委託事業「令和5年度 職場のハラスメントに関する実態調査報告書」(令和6年3月、PwCコンサルティング合同会社)
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000165756.html - 厚生労働省「看護師等養成所の運営に関する指導ガイドライン」(平成27年3月31日医政発0331第21号/最終改正 令和7年2月25日医政発0225第7号)
本文中の統計は、労働者を対象とした調査に基づくものです。看護学生・養成所を対象とした同種の全国調査は限られており、数値をそのまま養成所に当てはめることはできません。本稿では「被害があっても相談しない人が多数派である」という一般的傾向の根拠として引用しています。
本稿は一般的な情報提供であり、個別の事案への助言や法的助言ではありません。
2026/08/19 公開